福音はヨハネから「イエスと洗礼者ヨハネ」と言う段落でした。この段落では、ヨハネ福音書1:19-34以来再度、洗礼者ヨハネが登場して、イエスに対する証言を明確にし、後半ではヨハネの証言性と関連してイエス御自身の証に付いて言及します。
さて前の段落でイエスがニコデモと会ったのはエルサレムだと思われますが、朗読箇所冒頭で「弟子達とユダヤ地方に言った」と在り、エルサレムはユダヤに属しているのですから、この表現は少々可笑しいと思われます。しかし、この後に「ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた」と在ります。サリム、アイノンはヨルダン川のかなり上流、サマリアよりも寧ろガリラヤに近い地域です。「ヨハネは未だ投獄されていなかった」と言う記述からヨハネ福音書もヨハネの投獄、斬首の伝承を知っていたと思われます。マルコ福音書を見ると、ヨハネの投獄、殉教に依ってナザレ人イエスの活動が盛んに成り、ヨハネの洗礼運動から独立したと考えられますが、ヨハネ福音書では寧ろ両者の洗礼活動が並行していたと言うニュアンスを朗読箇所から受けます。ただし、4:2には洗礼を授けていたのは「イエス御自身で無く、弟子達で在る」と言う但し書きが在りますが。この辺りは洗礼者ヨハネの活動とイエスの神の国運動が対応関係在った事を推測させます。
あるユダヤ人達とヨハネの弟子達と清めの事で論争が起こった結果、ヨハネの弟子達は清めの事でなく、イエスの事に言及して、洗礼者ヨハネが証ししたイエスが「洗礼を授けて」居り、しかも「みんながあの人の方へ行っている」と指摘します。其れに対してヨハネは「天から与えられなければ、人は何も受ける事が出来ない」と答えて、神の摂理に人々の目を向けさせようとします。「わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」は、元来洗礼者ヨハネをしてヨハネ自身の位置、特にメシアとの関係を述べさせていたのですが、その事はヨハネの弟子達が一番知っていた事ではないかと言う形で、ヨハネは自分自身の位置、特にメシアとの関係を確認しています。そして、「花嫁を迎えるのは花婿だ。云々、あの方は栄え、私は衰えねばならない」と、ヨハネは自分自身が過ぎ去り行く者、イエス御自身こそが来るべきお方で在る事を証言し、栄光をイエスに帰します。
神が花婿で、イスラエルが花嫁でその証人としてヨハネはイエスの傍に立って居ます。花嫁と一緒に花婿の到着を待っている介添え人と言う思い入れです。花婿を待ち望んでいるのですから、花婿の声が聞えてくると証人で在るヨハネは退場の時です。それで、花婿が到着した事を心から喜んで自らは去ると言い、ヨハネは栄光をイエスに帰して、退場していきます。
飯田徹