祈りにはいくつかの種類があります。賛美の祈り、感謝の祈り、とりなしの祈り、そして嘆願の祈りです。最近、この<嘆願の祈り>が大切にされなくなったのではないでしょうか。
キリスト教は、そこいらの新興宗教のようなご利益宗教ではないのだという自負もあります。自分の願いで神を動かすことは偶像崇拝の始まりだという意識もあります。
しかし、例えばイザヤ書63章15節、16節を読むとひたすら願う祈りがあります。神様が手を出し、介入してくださらなければ、世の中と私の生活はどうなるのでしょうか、という祈りが綴られています。そして、今日の福音に出てくる重い皮膚病患者もこのイザヤ書63章の願いに生きていた人といえます。
「主よ、御心ならば、私を清くすることができます」という患者の祈りの原文は「主よ、あなたはおできになる、あなたが欲しさえすれば」というふうにもっと強い意味を持つそうです。あなたにはおできになる、できないことはない、望みさえすれば・・・。そしてそれと同時に、その患者は「それはあなたがそのことを欲してくださるかどうかで決まることであり、それは自分の決めることではない」という分をわきまえたことばでもあるのです。
「嘆願の祈り」にもっともっと励むようにしましょう。重い皮膚病患者が持っていた分をわきまえつつ。
M.M.joseph