受難の道を歩むイエスは、エルサレムへ向かって歩んでいきます。エルサレムに近づいたイエスは小高い丘の上からエルサレムをご覧になって、涙を流されます。エルサレムの運命を想い、心から悲しまれたのだと思います。親しい知人であったラザロが亡くなった時もイエスは涙を流されました。イエス・キリストは神の子でありますが、このような姿を見ていると、イエスが私たちと同じ人間であることがよくわかります。イエスもときに人間として私たちと同じように悲しみ、嘆きの心情を吐露されているのです。
初代教会の時代からイエスの人間性を否定する異端説が存在しました。すなわち、「イエスの人間性は借りものにすぎない、イエスの人間性は見せかけだけのもの」であると考える立場です。このような存在としてイエスをとらえるならば、私たちはイエスに対して神としてはあがめることはできても、すべての人間の救い主として、深いところから心を開くことができないのではないでしょうか。神でありつつも「イエスも涙を流す」というところに、私たちはイエスに深い親しみを持つことができ、真の救い主として信頼を寄せることができるのだと思います。
鈴木英史