今日のみ言葉
今日の『み言葉』(聖書朗読箇所)をよく噛んで、ゆっくり味わいながら頂くように致しましょう。
 
『み言葉』はリンク先「今週の聖書朗読」で読むことが出来ます。どうぞご利用下さい。


 2010/11/04(木)    聖カロロ・ボロメオ司教 記 フィリピ3/3-8a ルカ 15/1-10
 
 福音はルカから「見失った羊の喩」と「無くした銀貨の喩」の2つの段落です。
 
 先の喩のルカに於ける特徴は、喩の枠組みがルカ5:29-32の徴税人レビの家での宴会をモデルにしている事です。序の文の15:1−3は、5:29-30に対応しています。「徴税人や罪人が皆、云々、ファリサイ派の人々や律法学者達は、「この人は罪人達を迎えて食事まで一緒にしている」と不平を言いだした」、「ファリサイ派の人々やその派の律法学者達はつぶやいて、云々、「何故あなた達は、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」」。
 
 また結びの文、「悔い改める一人の罪人に付いては、悔い改める必要の無い、云々、正しい人に付いてよりも」、「医者を必要とするのは、云々、私が来たのは、正しい人を招く為でなく、罪人を招いて悔い改めさせる為で在る」。ですから結びの文もレビの宴会でのイエスの言葉が借用されています。
 
 その主な理由は枠組み無しのこの喩においては、見つかった罪人に対する喜びがイエス自身との関連で明示されていないので、この枠組み付けによって、「徴税人や罪人」と言う、当時の社会に軽蔑されていた人々を受け入れるイエス自身の立場を示す喩にする為です。従ってこの枠組みは、此れからの三つの喩がイエス自身の到来の意味を現すものと成ります。
 
 「罪人達を迎えて彼らとの食事」と言う枠組みは、放蕩息子の喩に於ける、戻って来た息子に対する父親の歓待と祝宴によって、他の第1、第2の喩を包括し、羊を見つけての一緒の喜び、見つけた銀貨の為の一緒の喜びと共に、罪人達と共に食事をするイエス自身の喜びを示しています。そしてファリサイ派の人々や律法学者の呟きは、放蕩息子の兄の態度と関連しています。
 
 いなくなった1匹のため、他の99匹を野原に残して探し回るのはどうかと思われますが、喩ですので、失ったものへの心配を印象付けます。そして見つかったものに対する喜び、しかも、見つけた本人だけが喜ぶのでなく、家に帰って友達や近所の人々にも「一緒に喜んで下さい」と言う、この頼みは、イエスの徴税人や罪人達と一緒の喜びの食事を冷たく監視するファリサイ派の人々や律法学者らへの頼みでも在ります。失った羊は罪人、見つかった事は罪人の回心になります。
 
 此処で「悔い改める必要の無い、、、正しい人」には二つの解釈が可能です。ルカ5:32を援用すると、自らを正しいと思っている「ファリサイ派の人々や律法学者」なら皮肉になり、もう一つは既に回心して、イエスと共にいる人々です。「見失った羊の喩」も「無くした銀貨の喩」も結びは「言っておくが」と言う預言的断言に依って、一人の罪人の回心への喜びが確認されています。
 
飯田徹
 


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