生のキリストとキリストの「神秘体」の私たち
不思議でたまらないことの一つは今日の最初の一行です。
「数え切れないほどの群集が集まってきて、足を踏み合うほどになった」と言う事実です。
空っぽの教会、誰にもあてにされない司教-司祭-修道者が溢れる状況、お金をいっぱいかけているのに、無駄づかいに過ぎない教会行事など・・・。イエスのところに行く人の多さの事実と誰も来ない私たちの現実にはどの理由-原因があるでしょうか?
返事の一つとしてですが、キリストには強くて生き生きした使命感が燃え働いているが私たち司祭・司教などには強くて、しつこい管理感が妨げて目立っている・・・。人が近づけない状況を作ってどうしようもない不幸なことをしてしまった。
キリストには「頭を休ませるほどの枕さえなくて」、人性と神性のドアを開かれたままの生き方を選んだが、私たちにはすごい指輪・金の十字架、貧乏に会うものではない服、多くの人々にはない立派なベッドなど等を守る姿勢で司祭館や人生のドアを閉じ、生活の条件みたいものがあって・・・人が近づけない状況にした。残念ながらネ。
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