「外側を造られた神は、内側もお造りになっではないか」と今日イエス様は私たちに言われます。私たちは自分が努力して造った物には愛着を持ち、大切に見守ります。私も幼稚園の子供と接していていつも感じることは、子供たちは自分が努力して作り上げたものには、すごく関心を持ちます。砂場で「みんなで作り上げた富士山」など、帰る前には、必ずといってもよいですが、「先生!!この富士山壊さないで、明日まで残しておいてネ!」と。
このことは、大人でも、神様でも一緒です。詩篇の言葉を黙想したい。「人の心をすべて造られた種は、彼らの業をことごとく見分けられる。」(詩篇33.15) 神様は私たちの心も体も「心をこめて造られた」のです。だから愛情をもって見続けて下さるのです。
田中次生
律法の掟を忠実に守ることによって救われる、つまり掟を守るという自分自身の努力によって救われるとするファリサイ派の人々に対してイエス様は度々、そんな彼らの目、かたくなな心を開かせようと厳しい言葉でさとしていました。
今日の福音のエピソードもそのうちの一つです。外面的、表面的、形式的な潔癖に執着、固執するあまり、もっと大切な内面の心の清めをないがしろ、おろそかにしてしまっている根本的な間違いをここでも指摘されています。このファリサイ派の人々の過ちは誰でも犯し得るものです。
今月はロザリオの月です。ロザリオの祈りは、とくに繰返して祈るというスタイルであるが故に、機械的になりやすい祈りでもあります。気をつけないと、グループで唱える時など、気付かないうちに終わっていたり、祈り中に別のことを考えてしまうこともあります。結局、形だけ唱えてしまうことが、たまにあるのではないでしょうか。教会の祈りや、ミサ、また聖体拝領でも、気をつけないと繰り返しの中で形だけや習慣的に終わらせてしまうこともあります。形式的、表面的にはきちんとしていても、神様との結びつき、神様との心の通いが十分ではない時もあり得ます。
今日の福音、「人の振りみて我が振り直せ」で、私たちも自分の生活、霊的生活を振り返って見ましょう。
mickey sdb