第1朗読はヨブ記から、ヨブの神に対する論争に対する神の答えと、ヨブの反省です。朗読箇所からは省かれましたが、神に論争を仕掛けるヨブに対して、神はヨブの覚悟の程を言います。しかし此れは、ヨブが神にとって対等な論争相手かという意味合いが在り、答えは否です。
ヨブは神の御業:経綸に付いては語る事が出来ません。神のみ業:経綸は人知の及ばぬ事であり「暗くする」、光ある神のみ業:経綸を暗闇に隠す事など、被造物であるヨブに出来ない事です。
そうした背景のもと朗読箇所は、神の業である自然現象:神の支配をヨブが命じたのかと、神は問います。もちろん答えは否で、ヨブは自分が被造物で在る事を思い知らされて、神に陳謝します。
福音はルカから「悔い改めない街を叱る」と言う段落です。此処に出てくる町々への警告は元来イエス自身の行いに対する彼らの不信への警告でした。そしてこの三つの街、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムは、何れもガリラヤ湖周辺の町々で、イエスが宣教し、多くの病人を癒した所です。そしてこれらの町々が旧約における異教の街の代表ティルスやシドンと対比されます。ティルス、シドン、どちらも旧約における港町で、港町は何処でも特有の雰囲気が在り、此れが異教の街となると、ユダヤ人達はただそれだけで罪深い街、と言う印象を持ちました。
「荒布をまとい、灰の中に座る」のは、悲しみや悔い改めの徴です。異教の町々の中でも特にユダヤ人の目から見て罪深い町々でさえ、もしイエスの「力在る行い」が其処で行われたなら、回心したであろうに、イエス自身の郷土、ガリラヤの町々はイエスの力在る行いを見ても回心しないのみならず、拒否するのですから、異教の町々の方が軽い罰で住むと言う論理です。カファルナウムへの警告は、イザヤ14:13-15のイスラエルの仇敵バビロンの王に対する弾劾文でした。
「天にまで」と「陰府」とは、ユダヤ教宇宙観に於ける両極端で、「陰府:ハデス」は冥土、地下の深い所に在るとされました。カファルナウムはイエスの活動の根拠地でした、だからそれでも彼らが回心しないなら、天罰も一層厳しいと言う警告となります。「あなた方に耳を傾ける」、即ち宣教者で在る弟子達に耳を傾ける、この言葉に依って、元来イエス自身に対するガリラヤの町々の拒否への警告だったものが、イエスが派遣する弟子達、更には初代教会が派遣する宣教者への、街の人々の態度に対する警告になり、初代教会のユダヤ人への宣教が反映されています。
飯田徹