サドカイ派の人々は、モーセ5書に復活の記述ないことを根拠に復活はないと主張します。つまり書かれたことしか信じない立場をとっています。ここにはわからないこと、わかりにくいことには初めから触れようとしない「逃げ」の姿勢が見えます。
神さまのことを私たち人間が知ることはできません。けれどもわからなくても信じるから信仰なのであって、文字に記された確かなことだけを信じるなら、その信じる行為は信仰という意味から離れていることになります。
エルサレム神殿の祭儀の一切を担当している名誉な地位にあるサドカイ派の人々は、ユダヤ社会の中で得た地位を保つために色々と配慮して生きていたと想像されます。不確かなことに触れないことも配慮の一つだったのかもしれません。けれども配慮に力を入れすぎて、全てを神に委ねること、わからなくても信じるという、信仰の本質的な部分が弱くなっていたのかもしれません。
私たちも生きていくなかで信じることが求められる場面で、本当に信じること、信じたことを行動に移すことができることを念頭において、与えられた信仰の恵みと向き合って行きたいと思います。
T.K
復活はないと言っているサドカイ派の人々の疑問について、「それもそうだなぁ、どうなるんだろう?」と思う方は多いのではないでしょうか。他には、赤ちゃんで死んでしまったら赤ちゃんの姿で復活するのかとか、体に傷や障害があったら、傷や障害があるままの体で復活するのかとか(イエス様がそうでした)そんな素朴な疑問も湧いてきます。
『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。』と復活について理解する視点をイエス様は示されています。「復活」は人のつながりや体のことよりも、神様とのつながり、魂のこと意識させるものと言えます。罪のゆるしが死からの復活であるように・・・
聖書も神の力も知らないと大変な思い違いをしてしまいます。神様は私たちに「力と愛と思慮分別の霊」をくださっているのですから(第1朗読)、イエス様の教え、福音を通して「復活」を理解し体験し、その信仰を深めるように務めましょう。
mickey sdb