第1朗読は使徒言行録から「エルサレムの使徒会議」と言う段落の前半が読まれました。エルサレムの使徒会議に付いてはGal2章にもパウロ自身による報告が在りますが、Act15章の記事とは多少異なります。朗読箇所は使徒会議の発端部分が読まれました。
さて朗読箇所冒頭の「在る人々がユダヤから降って来て」は、在る人々がエルサレム教会から下って来たのでは無い事を匂わせ、エルサレムの教会は異邦人宣教に反対しないと言う好意的な表現を、ルカは装っています。此れは明らかにガラテヤ書l2:12の「ヤコブの下から在る人々が来るまでは」と矛盾しており、ルカのエルサレム中心主義が現れています。
ルカにとってエルサレム教会は理想的な教会で、意見の不一致はあり得ません。そこでユダヤからアンティオキアに降ってきた在る人々は、異邦人信者に「モーゼの慣習に従って割礼を」要請し、律法の遵守も要請します。異邦人が割礼を受け、律法を遵守する、即ちユダヤ人化、或いはユダヤ教徒化する事は、キリストの教え・福音をユダヤ教の枠内に押し込めることであり、何らユダヤ教と変わりません。
キリストの救いの業を信じて義とされる(信仰義化)、と言うキリスト教の独自性を守る為にパウロは強硬に反対します。そのためにアンティオキア教会はエルサレム教会と協議する為、パウロとバルナバ他数名をエルサレムに派遣します。
福音はヨハネから「イエスはまことの葡萄の木」と言う段落の前半が読まれました。イエスをまことの葡萄の木とする象徴説話が展開されます。「私はまことの葡萄の木:エゴ・エイミ・へー・アンペロス・へー・アレーティネー」、エゴ・エイミが用いられていますが、神顕現様式とは多少相違しています。寧ろイエスに付いての認識を要求していると思われます。
イエスは命の唯一の源泉で在ると言う認識がなされなければなりません。その認識を欠いているとすれば、イエスに繋がっているように見えても実を結ぶ事は有り得ません。それは不完全な信仰、未熟な信仰を指しています。イエスの徴に依って多くの者が信じた、しかし、ひとたびキリスト教が、ユダヤ教正統派から異端宣告を受けると、多くの者が脱落して行きます、それは、本当にイエスに結びついていなかったからです。
其れに対して、危機に直面してもなお、イエスをキリストと告白し、神と信じる者は、「豊かに実を結ぶ様に」なる。此処には信仰の成長と言う事も視野に入れられて居り、信仰は絶えず前進して行く事によって、実りをもたらします。そして、イエスの言葉、教会の宣教の言葉を聞く者は、清くなっている。しかし、絶えずイエスに「繋がって」居る事が命じられます。「繋がる」の言語はメノーで在り、留まると言う意味で、此処ではイエスと弟子達の一体性が強調されています。
イエスが父に留まり、一体で在る様に、弟子達もイエスに留まって、イエスとの一体性、更には御父との一体性を示していかなければなりません。その事によって信仰の実を結び得ます。其れゆえ、「イエスを離れては、云々、何も出来ない」と言う事が確認されます。弟子は、人間的資質によるのではなく、キリストに依って力を与えられ、キリストの業を継続します。
イエスに繋がっていない人が裁かれる事が告げられていますが、その言葉はMt3:10に端的に示されている様な、終末の時の審判の表象に依っています。しかしヨハネの場合は、黙示文学的終末論とは異なり、現在イエスに繋がっているかどうかに依って、審きが下されます。
それは教会からの追放と行った具体的な処置に依って現されると言う事ではなく、啓示者イエスを信じるか否か、そしてイエスに留まり続けるか否かに依って、救いか滅びかに分かれると言う事です。そしてイエスに繋がっており、イエスの言葉を守る者の祈りを聞き届ける事が語られます。そして弟子の共同体において「イエスと共に御父は栄光を御受けに」なります。
飯田 徹