神を自分の眼で見たいというのは、誰もが願うことです。この望みに対して、「いや、既に父(神)を見ている。」とイエスは断言されます。それはイエス(子)の業を見ることによって可能であると言われます。
かつて、イスラエルの民をエジプトから導いたモーセも同様な願いで神に迫りました。「わたしの善い賜物を通」してわたしを、知りなさいと答えられました。(出エジプト33.19)
今日、「わたしを見たものは父を見た」と言われ、さらに、わたし(キリスト)が行ったさまざまな業を通して父を見なさい、そして、あなたがたもよい業を行いなさいと勧められます。
このように考えると、わたしたちの善い行いを見てキリストが示され、キリストの行いを見て父である神を知ることができる。神を見ることができるということでしょうか。
この眼で神を見たいという望みは、信仰をもって生き、愛するなら、その時、「神をありのままに見ることができる」とヨハネの手紙で、約束されています。(Tヨハネの手紙3.3参照)
その時を期待しましょう。それは、すでに、キリストの復活が証明しています。
道