今日のマタイの福音は、律法学者はファリサイ派の人たちが負い切れないほどの重荷を負わせていることと対照して、イエスの軛が負いやすく軽いことについて書いています。さて、自分自身のことを考えるとき、果たして本当に、イエスの軛を負い易く軽いと感じているでしょうか。「キリスト者でなければ、洗礼さえ受けていなければ、もっとこの世では生きやすいのに・・・」と思ったことはないでしょうか。「ごく普通の人は、競争社会の中での様々な葛藤をイエス抜きで考えられるではないか。敵を愛せなど、出来るはずがない。騙し合いの中で勝たなくてはならないのだ。イエスは重いんだよ。」そんな声も聞こえてきそうです。
さて、イエスの荷はなぜ軽いのでしょうか。 一つの回答はこうではないでしょうか。つまり、イエスの荷を負う人は、決して独りぼっちではないからです。様々な葛藤、矛盾、不条理の中を生きるとき、私たちは本当に独りですべてを担っているのでしょうか。イエスの価値観と全く反対の世界でさえ、神の手の中にあること。イエスの十字架は、明らかにこの世におけるイエスの排除そのものの物語ですが、それすら神の手の中から外に出ていないということです。そうすると「イエスは重いんだよ!」と叫ぶ私たちは、神の手の中で叫んでいるのかもしれません。もちろん、神はその叫びを間近で聞いてくださると思います。
John Goto