聖フランシスコ・ザヴィエル、東洋の使徒、或いはその当時のヨーロッパから見た地の果て日本への宣教者と言う事で、福音はマルコから、復活者イエスの「弟子達を派遣する」と「天に上げられる」と言う二つの短い段落でした。
ある解説書に依りますと、マルコ福音書は元来16:8で終わっており、Mk16:9以下はのちの時代の付加であるとしています。成程そう言われてみれば、16:8と16:9は内容的につながりがなく、16:9の「週の始めの日」と16:1の「安息日が終わると」内容的に重複しており、また16:8と16:9の内容的な繋がりも悪く、16:9いかはマルコ以外の作者であることが伺えます。
考えられる事は、マルコの教会内で書き写されていく過程で、イエスの復活信仰を抜きには語れなくなった事が伺えます。しかもマルコの教会の当事者たちは、迫害に曝されながらも宣教に邁進する理由が欲しかったのではないでしょうか。
また、マルコ自身は復活のイエスの顕現物語を記さず、十字架に付けられたナザレのイエスの復活を証言し、ガリラヤで弟子たちに会うと言う、天使の言葉のみで、福音書を終わらせています。ガリラヤはイエスが宣教活動を開始し、弟子たちを召し出した場所です。弟子たちは、かっての出会いの場所で復活者イエスに会い、何らかの事を告げられた筈です。恐らく伝承として教会に伝わっていた「世界宣教命令」を、書き写していく過程で加えずには居られなかったものでしょう。
そうした背景を思いながら朗読個所を読むと、朗読箇所から省かれましたが、Mk16:14「十一人が食事をしている時、イエスが現れ、その不信仰と頑なな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言う事を、信じなかったからである」と在り、復活者イエスはイエスの復活を信じない弟子達の不信仰と頑なさを咎めた後で、本日の朗読箇所で弟子達に、イエスの復活信仰の世界宣教を命じます。それは不信仰と試練の克服、言い替えますと神の恵みの出来事が起こる時、人は神に仕える奉仕の中に取り入れられ、其れに依ってまさに信仰の中に置かれます。
マルコ(Mk)は13:10で「全ての国民」に対する宣教を語って居り、Mk14:9、16:15aと全世界に付いて語っていますが、15bでの表現は更に包括的となり、「あらゆる被造物」と言う言葉を用いています。16:9以下を付加した者は、この表現を通して、キリストは全被造物の主で在って、既にその降誕以前から来るべき復活に基いて褒め称えられるべき存在で在り、人間だけでなく、自然界の全体がその支配下に服すると言う神学を持っています。それ故の世界宣教命令です。
この弟子達に対する世界宣教命令は現在に生きるキリストの弟子で在る私達にも適用されます。
飯田徹