「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」
「待つ」ということは、ときに幸せであったり、ときに辛かったりする。楽しいことを控えている友達との待ち合わせや結婚を控えた二人にとっては、おそらく幸せな「待ち」時間を過ごしていることだろう。しかし、そうでもない「待ち」の時もある。
主キリストとの関係において、私の「待つ」という時間はどうなのだろうか。はたして、私は日常生活においてどれくらい主キリストを待っているのだろうか。
確かなことは、私が待っていようが待ってなかろうが、いついかなる時も、主キリストはわたしたち一人一人を待っていてくださるということである。
「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくださる。」と語られているが、普通の常識において、主人が僕の給仕をすることは考えられない。ここでいう主人は、おそらく「主キリスト」ご自身のことであろう。神というお方、主キリストというお方は、このような存在である。わたしたちもこのお方、主キリストに肖って生きられたらと願う。
「(主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、)目を覚ましているのを見られる僕は幸いだ。」と言われる一人でありたい。
秀昭