主人は僕達に家の管理を任せて出かけ、今は不在で、主人が何時帰って来るかは僕達には解らず、かなり遅れると予想せざるを得ない状況です。この状況に対し、44節で主張された人の子の突然の到来は50節で主人の出現に繰り返され、何時主人が帰って来ても良い様に、忠実で賢く行動すべき事を教えます。
マタイ福音書に於いて、特に教会指導者に対する勧告の意味が大きい事に注意すべきです。指導者は他の使用人達:一般の教会員の管理を委ねられていますが、指導者は上に立つと言うより、仕える立場で在る事を十分に心得ねばなりません。主人から与えられた地位を利用して、仲間に乱暴を働く悪い僕であれば、帰宅した主人は彼を偽善者と見なし、厳罰に処します。
偽善者は23章では繰り返し律法学者、ファリサイ派に対する語でしたが、マタイの教会にはそれと同じく注意すべき指導者が居た事が推測されます。その指導者達の誤りの原因は終末遅延に付いての理解不足であり、再来する主は、最期の裁きに於いて、この様な悪徳の僕達を裁きます。
飯田徹