イエスは、神殿の境内の様子を下見しています。つまり、そこがまるで「強盗の巣」のような有様であることを把握していましたが、それを拙速に指摘することはせず、課題を次の日に持ち越しています。人々に、あるいは弟子たちに「如何に効果的・印象的にメッセージを伝えるか」を考えたかも知れません。いちじくの木の出来事は、こうしたイエスの戦略の一つとして捉えることができます。
実りを期待する神と、実りをもたらさない民との関係。その本来の姿が失われたとき、どのような運命が民を待ち受けることになるか。マルコが、いちじくの木の出来事と神殿でのイエスの振る舞いとを、つながりのある事件として描いているのは明確です。つまり弟子たちの心にも、この二つの出来事が関連付けられたものとして印象深く刻まれていたと言ってよいでしょう。
神殿での出来事を平たく読んでしまうと「祈ること」が求められている…とだけ解釈してしまいますが、イエスが求められたのは「実り」であったということを忘れないでください。祈りに支えられてもたらされる実りと、実りを生み出すことで深められる祈り。役割分担はしてもいいかも知れませんが、共同体全体としては、どこかに偏りがあっては旨く機能しません。よく見渡してみましょう。
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