私たちは普段の生活で歴史を実感することはありません。ここでの歴史は自分のなかにある先祖から受け継いだものという意味です。たとえば一人ひとりの体内に流れている血液は先祖から受け継いだものです。けれども私たちは継承されたことをあまり意識していません。
このように私たちが意識していようといまいと私たちに脈々と受け継がれているものがあります。キリスト者として受け継いだものもあります。キリスト教の教え(精神)です。その中に聖人たちへの畏敬があります。私たちは信仰のことを考察し、キリスト者としての生き方を探求するときに古の人たちの中で自分と同じ境遇、立場の人を探します。そしてその模範から何らかの示唆を汲み取ろうと試みるのです。そのことは私たちが継承されている信仰に生きていること、受け継いでいるものがあることを思い出させてくれます。
キリスト者である私たちは洗礼名をいただきました。一人ひとりがそれぞれの霊名である聖人のことをより深く知るように努め、必要な恵みを取り次いでいただけるように願いたいと思います。
T.K
ここで「幸いである」と言われている人たちは、迫害や搾取で苦しみ、虐げられているが、その中にあっても積極的に生きようとしている人たちです。彼らは、神以外に頼るものが他にない、神のみに希望を置いて生きている人たちです。このような人たちは救いに与かるのだと言われています。
ここでのキーワードの一つに「義」という言葉があります。これはマタイ福音書全体のキーワードでもあるもので、「神が神らしく正しく振舞う」つまり「神による救いがもたらされる」ということです。
今日は諸聖人の祭日ですが、救いをもたらしてくださるただ一人のお方である神様、その方にのみ希望を置く生き方、それが聖人になっていく生き方です。そして今日の福音で語られている生き方は、まさにイエスの生き方でした。この生き方に私たちが、日々与かっていけるように、諸聖人の取り次ぎを祈り求めてまいりましょう。
Tsujiie