山上での説教に続いて、福音書では3つの癒しの話が語られ、群集はまるでイエス様のとりこになったようです。ところがイエス様は、向こう岸へ渡ってそんな群集から離れようと言います。なぜでしょうか。
群集のうちに感じた2つの傾向をイエス様は感じ取ったのではないかと思われます。ひとつは律法学者に表されている「どこへでも従います」という態度です。その意向自体はとてもよいものですが、福音書は律法学者をファリサイ派の人々と並べて、偽善者や律法をうわべだけ守る人というように描いています。「人の子には枕するところもない」のです。つまり、イエス様の立派な説教や華々しい癒しの力だけに惹かれ、十字架に目を向けない者は弟子としてふさわしくないのです。
もうひとつは「まず父を葬りに行かせてください」という言葉です。これは律法学者ではなく弟子の一人の言葉です。これに対してイエス様は「私に従いなさい」と答えます。前述のように、外に表れる格好の良さにだけ惹かれるという態度はいただけないとする一方で、一度従うと決めたらとことんついて来なさいと言われるのです。主なるイエス様だけを一心不乱に求めなさいと。「肉親と二度と会うことがないかもしれない、親の死に目に会えないかもしれない、兄弟を葬ることができないかもしれない、ましてや自分の命を保つことさえままならないかもしれない… それでも勇気をもって私を選んでくれるのか」とイエス様から問いかけられているようです。
群集がこの2つの傾向を乗り越えるには、どうしてもイエス様の十字架が必要だったのです。今はまだそのときではないのでここはいったん離れようということだったのでしょう。
私たちはその十字架を知っています。キリスト者は十字架を切り、十字架を身に着けたりします。イエス様の十字架を体験することなしにキリスト者のアイデンティティーは無いのです。
DAISUKE