主の復活は受難の前には誰も理解できませんでした。その話が何を意味するか理解できるようになったのは、実際に起こった出来事から理解できたのです。墓から遺体が消えたのを発見したのは、婦人達です。その婦人達の話を半信半疑で駆けつけた弟子たちも確認しました。また反対者であるサンヘドリンの人々も確認しました。しかし彼らはイエスご自身を探さず、喜びのうちに墓から家に帰っていきました。
一人多くを許されたマリアだけが復活したイエスを探し続けます。それは主の愛によって多くをゆるされ、受け入れられたからです。もう一度、主に会えるはずだという確信を持って。そして「マリア」という名を呼ばれ、キリストに出会うのです。
深く係っていたから探そうとします。そのかかわり具合が復活したキリストとの出会いを深め、新たに生きる原動力になるのでしょう。良き時の訪れに。乾杯。
POOH
マグダラのマリアは、復活されたイエス様と出会いますが、それがイエス様だとは気づくことが出来ませんでした。イエス様の御遺体に香料を塗ろうと、週の初めの日の明け方早く(ルカ24:1)に墓場に来るほど、深くイエス様のことを愛していたにもかかわらず、イエス様の姿を見ても気付かなかったのです。まだ、復活の意味をよく理解しておらず、真に「復活」を信じることが出来ていないことによって、目が遮られていたからでしょう。
復活された主は、今も生きておられます。私たちのうちにも生きておられます。その生きておられるイエス様の姿を私たちはしっかりと認識しているでしょうか。
この復活節、復活に対する信仰に磨きをかけて、まだまだ私たちが気付かないでいるイエス様の姿をしっかりと見つけ、見ることが出来るようになりたいものです。そして私たちもマグダラのマリアのように、「私は主を見ました!」と出会う人々に証しできる者となれますように・・・。
mickey sdb