今日は第1朗読を見てみたいと思います。四旬節にはよくイザヤ書の第二部にあたる「第二イザヤ」が朗読されます。そのピークは聖金曜日の朗読です。今日の朗読はそれに先立つ箇所で、主の僕の苦難が語られています。
時は紀元前6世紀、新バビロニアによってイスラエルの民は捕囚とされます。捕囚とはいえ、不自由ながらもそれなりの生活に慣れ、「まあ、人生こんなもんだろ」と半ば諦めながらも与えられた人生というか運命に身を委ねていました。その時に、ペルシャの王キュロスがすごい勢いで周りの国々を自国としていき、バビロニアにも不安がよぎり始めました。そして第二イザヤの「主の僕」が「キュロスこそ神が遣わした者で、我々をこの捕囚から解放してくれる!」というメッセージを送り始めます。みんな喜んでくれる!はずですが、実はそうではありませんでした。「何いまさら変なこと言ってんだよ」「もういいんだ、俺たちはそれなりに生きていくすべも得たし・・・もう辛いのは御免なんだよ」これが捕囚であるイスラエルの人々の本音でした。「主の僕」の孤独、そして孤立。迫害の中、彼は逆らわず、そして退かず、メッセージを送り続けました・・・続く
というストーリーです。神からのメッセージと人間の現実との衝突。「神様、別にもういい」という人間側の本音。私たちの生活の中にも同じような心の動きはありませんか。
John Goto
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