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ソロモン諸島について

ソロモン諸島に関するデータ


歴史:
ソロモン諸島へ古代太平洋人が移り住んできたのは、約3500年頃前だと言われている。これを示す考古学的証拠として、サンタクルーズ諸島などで発見されたラピタ式土器である。欧米人が最初にソロモン諸島を発見したのはスペイン人航海家、アルバロ・デ・メンダナで1568年のことであった。彼は古代イスラエスを治めた伝説的な富豪の「ソロモン王」の財宝を探して航海をしていたため、1569年にペルーへ戻った後、ソロモン諸島と命名した。しかし、ソロモン諸島のおいては金も財宝も発見できなかった。1595年にメンダナは再び出帆し、サンタクルーズ諸島で死亡した。

1845年にフランスのローマカトリック教会の一行が最初の宣教師として訪れ、サンタイザベル島の離島であるサンジョージ島で殺されたが、宣教師たちは教育を施し、読み書きを教え、保険や医療サービスを確立するなどして布教を広めた。英国は1893年に南ソロモン諸島を保護領として宣言し、1900年には北ソロモンを習得した。1871年から1904年にかけて、英国はオーストラリアのサトウキビ畑へ、約16千人ものソロモン人を労働者として送り込んだ。

1942年から1943年にかけて、日本軍と米軍を中心とする連合軍との間で、激しい戦闘が行われ、太平洋戦争の中でも最も激しい戦闘の一つであったと言われている。1945年の第二次世界大戦終戦に伴い、大戦の的であったヘンダーソン空港を平和利用のため、首都をツラギからホニアラに移転した。1975年「ソロモン諸島英国保護領」から「ソロモン諸島」に名称を変更し、197877日に独立した。

文化:
ソロモンはメラネシア民族圏に属し、島や部族により異なる独特の伝統文化を持つ。各島各部族では使う言葉も全く異なり、その色彩が今の強く残されている。

位置:
南緯510分〜1245分、東経15530分〜17030分の間に点在し、ブリスベーンのほぼ北約21000kmの距離にある。

面積:
全島約80の島々から成り、全島の陸地総面積は12189kmで東京都の約5.7倍、新潟県とほぼ同。

地勢:
ガダルカナル、チョイセル、ニュージョージア、マライタ、サンタイザベル、サンクリストバルの主要6島と約100に及ぶその他の島で構成され、パプアニューギニアのブーゲンビル島から南東に向け、2重の鎖状に連なっている。主要島は、いずれも峻烈な山岳地帯が多く、ほとんどが熱帯雨林に覆われている。

気候:  
殆どがメラネシア系民族(94.2%)。その他、ポリネシア系、ミクロネシア系(主にキリバス人)、欧州系、中国系民族など。体型は日本人とそんなに変わらない。

人口:
49万4786人(2002年7月推計))

人口増加率:
2.91%(2002年推計)

人口密度:
17人/ku(2002年推計))

平均寿命:
71.82歳(2002年推計))

宗教:
ほとんどキリスト教(95%)。主な宗教はローマンカトリック、アングリカンなど。少数だが、慣習的宗教もある。

政治形態:
英国女王を元首とする立憲君主国であるが、現地においては5年毎に国会の推薦に基づき、英国王より任命される総監(ソロモン人)が英国女王を代表する。憲法上、行政権は国家元首にあり総監が国家元首に代わりこれを行使するが、その執行は内閣の助言に基づいて行わなければならないと言っているので、実際の権限は内閣にあり、総督は名目的な存在である。議会は一院制で47名の選出議員からなる。選挙は小選挙区制で任期は4年。

産業:
農林水産業を中心とする第一次産業が主体。村落部の多くは、未だ自給自足の経済を営んでおり、そこで生産、消費される作物、魚、住居、燃料等は、今でもGDP全体の20%に相当すると推されていうるが、これらを合わせた第一次産業の全GDPに占める割合は50%に達する。農業の主要産物はコブラ、ココア、パーム油など、林業は丸太や製材の輸出。漁業は冷凍、缶詰、荒節。鉱工業では、砂金、銅、ニッケル、ポーキサイト、コバルト、金鉱等の資源が存在することは確認されているが、砂金や金以外には採取などは実行されていない。

貿易:
ソロモン経済は、魚、木材、コプラ、パーム油等の輸出に強く依存しているため、一次産品の国際価格下落の影響を受けており、国際収支の赤字が続いていた。1996年には輸出増で貿易収支が改善したが、その後アジア経済の不調の影響もあり、輸出は伸び悩んでいる。また、2000年の部族対立の影響により財政は大幅な赤字となっている。

電力:
水力発電の計画もあるが、現在では全て火力発電で賄っているが、村落部、離島などでは、自家発電や灯油を使ったランプ生活も続けられている。

道路:
ホニアラ、マライタ島のアウキ、キゾ島など主要都市の一部に舗装道路があるのみで、その長さは全100kmにも満たない。その他は、珊瑚、砂利等を敷いた道である。ガタルカナル島は北岸の西はランピから東はアロアまでが車で通れる道であるが、そのほとんどは道幅は狭く、舗装もされていない。

下水道:
ホニアラやギゾなどの主要都市を除き、ほとんどが雨水タンクや河川、湧水にたよっている。

教育:

義務教育はない。初等教区は6年制であり、公立では無料教育が実施されている。全児童の就学率は約60%、英語は初等教育において必須科目とされている。中等教育への進学は、選抜試験合格者のみに認められ、約30%の進学率。高等教育機関として、ソロモン高等教育専門学校及びフィジーに本部を置く南太平洋大学ホニアラがある。毎年、約300人がフィジー南太平洋大学、パプアニューギニア大学、その他オーストラリアやニュージーランドなどの大学に留学している。

報道

ラジオはソロモン放送協会が週118時間の放送をピジン語と英語で行っている。新聞は、政府広報局発行のソロモンニュース紙と民間新聞のソロモンスター紙、ソロモンズポイス紙が週刊で発行している。テレビ局はない。大きなホテルでは、アンテナをつけて衛生放送を受信している。NHK放送も受信できる。

スポーツ:
サッカーが最も盛ん。他にはラグビーやバレーボールなど。

対日関係:
戦争という不幸な歴史を受けたにも関らず、大変な親日家で一般住民の対日感情も良い。日本は大使館をホニアラに常設しており、日本にはソロモン名誉総領事館が東京に置かれている。

ソロモンへの航空路:
日本からの直行便はない。フィジーのナンディ(週1便)、ブリスベーン(週3便)、オークランド(週1便)、パプアニューギニアのポートレスビー(週2便)からの乗り換えとなる。お勧めルートはブリスベーン経由。日本各地からブリスベーンは、多くの便が運行されている。

時差:
日本よりも2時間早い。日本が正午の時、午後2時。

通貨:
ソロモンドル(SI)。1SI$の現金換算ルートは、約17円。(2003年8月)。円からの両替もできるが、持っていく外貨は米ドルのトラベラーズチェックが有利。

電気:
240ボルト、50サイクル。プラグはハの字型。

言語:
公用語は英語。現地の言葉はピジン語(PNGのピジン語と多少異なる。)と村言葉。

治安:
良いが、盗難はある。

衛生:
マラリアの心配があるが、短期間の訪問でかかる人は稀だ。薬も副作用があるので医者とよく相談の上決定してもらいたい。水は沸かしてから飲んだ方が無難。ミネラルウォーターは売られている。

出国税:
SI$40

在留日本人数:
15人(200110月)。



ガダルカナル島の戦いGuadalcanal 1942


ガダルカナルの戦いについて

太平洋戦争初期、日本とアメリカが双方とも最大の戦力を投じて行われた作戦である。日本軍はガダルカナル作戦までは、アメリカ軍に対して優勢だったが、この作戦で日本が失敗したために、アメリカ軍に押されていった。

1942年8月7日から翌年の2月7日までガダルカナル島で行われた。ガダルカナル島は、連合軍のオーストラリアとアメリカを結ぶ線の上に位置する。ガダルカナル島を日本軍が押さえれば、米豪両国を分断できると、日本軍は判断し、そこに日本海軍が飛行場を設営した。その飛行場をルンガ飛行場といい、現在のヘンダーソン空港である。

ルンガ飛行場を作った日本軍は小部隊でいたところを、アメリカ軍の1個師団がガダルカナル島に奇襲上陸し、瞬く間に飛行場を奪ってしまった。日本軍は、飛行場奪回のため、一木支隊、川口支隊、第2師団、第38師団を順次上陸させたが、いずれも苦戦し、飛行場に近づくこともままならなかった。日本軍の主力戦闘機は、ラバウルから飛んでくるため、ガダルカナル島には15分程度しかいることができず、アメリカ軍はヘンダーソン飛行場から迎撃に出るため、制空権は完全にアメリカ軍のものになっていた。ガダルカナル島の日本軍は昼間は行動できず、夜のみ移動するという状態が続いた。

また、海上もアメリカ軍が優勢で、ガダルカナル島に補給する日本軍の輸送船はことごとく撃沈され、ガダルカナル島への補給は閉ざされてしまった。ガダルカナル島は、ジャングルの島で、食料となるものはない。島にいる日本軍は、飢えと病気(マラリアの流行地で、現在でもそうです。)で多くの兵隊が亡くなった。

日本軍は上陸した総兵力31,400人のうち、21,000人の戦死、戦病死者を出した。残った兵士達も、1943年2月1日から7日までの間に餓死寸前で撤退した。実際の戦闘で亡くなったのは5・6千人と言われている。後は病死と餓死であるため、ガダルカナル島を「ガ島」=「餓島」と呼んだ。



犠牲者数

項 目

日本軍

アメリカ軍

作戦参加総兵力

31400

延べ約7万名

死者

21000
(戦死  約6000名)
(病死 約15000名)

1600

負傷者

不明

4700

延べ数は兵員が途中で交代している為
戦死:戦闘による負傷

病死:マラリア等の疾病や飢餓による栄養失調が原因で死亡した人
尚、輸送途中の戦死傷者及び艦艇や航空機の戦死傷者などは含まれていません。

経緯

昭和17年(1942)
 7月11日   日本軍大本営、南太平洋侵攻作戦中止。ソロモン諸島周辺が手薄になる。
 7月16日   日本軍、ガダルカナルにルンガ飛行場(ヘンダーソン飛行場)設営開始。
 8月      米軍ウォッチタワー作戦(反撃作戦)を開始。ガダルカナル島占領を決定。
 8月 7日   米海兵隊(11000名)、ガダルカナル島テテレに上陸、ヘンダソン飛行場を占領。
 8月18日   一木支隊(2500名)、ガダルカナルのタイボ岬に上陸。飛行場をねらう。
 8月21日  一木支隊、イル川とテナル川の間に追い込まれ全滅。
 8月29日   川口支隊(4000名)、ガダルカナルに上陸開始。
 9月13日   川口支隊の飛行場総攻撃。血染めの丘の戦い(死傷者1000名以上)
10月24日  第2師団、第38師団による飛行場総攻撃、失敗(死傷者2000名以上)
11月以降    日本軍の物資なくなり、弾薬、食料などすべて不足する。
12月31日   大本営、ガダルカナル島撤退を決定。 (以降、残された兵は山岳地帯に)

昭和18年(1943)
 2月 7日   日本軍主力ガダルカナルより撤退する。


生存者のことば

伊藤幸人氏

「私の所属していた部隊は、歩兵第百二十四連隊で、岡明之助大佐が指揮する約三千五百名の部隊でした。十七年の八月、突然米軍が、日本海軍が設営していたガダルカナル島ルンガ飛行場を攻撃、占領しました。これはニューブリテン島にあるラバウル飛行場に重大な支障を与えるので、急いで私の所属する隊に奪還(うばい返す)のための作戦命令が下りてきました。
 十七年の八月十六日パラオ出航、トラック島、ニューブリテン島経由、ソロモン群島、ブーゲンビル島南端のショートランドで海軍の駆逐艦に乗ってガダルカナル島へと向かう事になりました。これは制海権、制空権がない(海や空を軍事力で支配できていない)ため、足のおそい輸送船ではとてもガダルカナル島まで行く事ができないとの判断でした。
 駆逐艦でガダルカナル島へ向け南下中、第七中隊を乗せた駆逐艦朝霧が、ガダルカナル島から飛んできた米軍の戦闘機に爆撃され轟沈、中隊長以下全員、約百七十名が艦と運命をともにしました。この様子を目のあたりにしたのでこれは大変な戦争になると覚悟しました。幸い私の中隊は無事十七年八月三十一日午後11時、ガダルカナル島タイボ岬という所に上陸できました。みんなそれぞれ約十日分の食料、米六升、小銃弾三百発、手投げ弾二発を持って、海岸線は危険なので、ジャングルを進んで飛行場の後ろに出るようにしました。
 私はジャングル伐採隊長として最大限の努力をしましたが、思うように行かず、一日に数キロ進むのがやっとでした。海軍との協定で九月十二日までに攻撃位置にたどり着くのが至上命令でした。これは海軍の戦艦、巡洋艦による飛行場制圧のための艦砲射撃での攻撃に乗じて川口支隊が飛行場を攻撃する計画のためです。
 九月十二日が至上命令でしたが、いくらがんばってもジャングルを切り開く事は進まず、十三日の夕刻、どうにか攻撃準備位置らしい所に進入する事ができました。海軍との協定延期はとてもできそうにない事でしたが、どうにか受け入れてもらえたとの事でした。
 通常、陣地攻撃というのは、陣地の地形、兵力の配備、重火器(機関銃、大砲など)の位置などをもとにして、その弱点を攻撃するのが戦法です。しかし、充分な準備もできず、協定の日時となり、心ならずも準備不備のまま、やみくもに敵の陣地の夜襲攻撃となりました。
 敵の第一線陣地をぬき、第二線の重火器陣地を奪い返した所で夜明けとなり、敵の戦闘機の銃撃、爆撃を受けてしまい、攻撃は失敗しました。
 私はこの戦闘で午前4時ごろ機関銃の銃撃を右大腿部に受け、神経の一部が切れて、右足が動かなくなりました。どうにか転がりながら、ジャングルの入り口にたどり着く事ができました。この戦闘で私の中隊は中隊長以下七十五名の者が戦死しました。遺体はそのまま、収容は不可能でした。
 それから撤退の十八年四月まで(八ヶ月間)は苦難の連続でした。上陸した時に持った食料は九月十三日までに食べつくしていました。制空、制海権がないので弾薬、食料の補給はまったくない状態で、ガダルカナルでの年月は飢えに飢えて、まったく餓鬼(がき:地獄で飢えとかわきに苦しみ続ける亡者)そのものでした。このようなありさまでしたので、毎日毎日、栄養失調で餓死する者がつぎからつぎへと出ました。米軍が積極的に攻撃してこなかったので、何とか全滅はしないですんだのです。 
 この頃、(十八年の一月)ジャングルを撤退中の私たちの中で、不思議な生命判断がはやりました。限界に近づいた肉体に残された命の日数を統計の結果から次のように判断するのです。
 立つことのできる者―約三十日間、
 体を起こして座る事のできる者―約三週間、
 寝たきりで起きれない者―一週間、
 寝たままで小便をする者―三日間、
 物を言わなくなった者―二日間、
 まばたきしなくなった者―その日限り……
 この、非科学的で、非人間的な生命判断は決してはずれることはありませんでした。
 ガダルカナル島での戦死者数、三千二百四十名、撤退できた者、二百名。
 ちなみに私がいた四中隊は戦死百五十四名、撤退できた者十三名。
 戦死者は山野に屍(しかばね)をさらしたままです。
 …私は戦死者に申し訳ない気持ちで生きています。生かされています。…」

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